本書を手に取った際、司馬遼太郎という名前と、『ビジネスエリートの新論語』というタイトルとの組み合わせに違和感を覚え、首をひねった。なぜなら、司馬遼太郎といえば誰もが知っている歴史小説家で、時に草莽の志士の姿を通して、時に無名なれど気骨ある市井の人々の姿を通して、夢やロマン、大義、志、そういったものを描いてきた人物だという印象があったからだ。つまり、ビジネス、という言葉とは縁遠い存在だと認識をしていた。

ただ、冒頭の<刊行にあたり>の文章を読み、その疑問はすぐに解消した。本書は、司馬遼太郎ではなく、産経新聞記者時代の司馬遼太郎ならぬ福田定一氏が書いた処世訓(厳密には、処世訓を氏が厳選したもの)であるということだからだ。なるほど、それならばおかしくはないな、と得心する。だが、それも束の間、頁をめくり、すぐにまた首をひねることになる。いや、首をひねるのではなく、首が、胸が、痛くなる。

「一体、月給取りを職業と思っているんだろうか」

氏の言葉ではなく、ある博士の言葉として氏が引用をしているものだが、歴史小説のように静かな始まりを想定していたため、突然の鋭い問いかけに虚を突かれる。
『竜馬がゆく』や『燃えよ剣』といった数々の作品で見せた、氏独特の、敗者や弱者、道半ばで倒れた者達に対する暖かい眼差しを期待していた私は、当然、本書も日々七転八倒する私のような市井の民をも大らかに包み込んでくれることを期待していたわけだが、冒頭にて、裏切られた。と、同時に、さすが、という感想も抱く。アンケートなどの職業欄に、「会社員」と記載をするたびに、アメリカンを通り越し、ただ単に薄いだけのコーヒーを口にした時のような、なんとも言い難いおさまりの悪さを覚え、ついには耐え切れなくなり、「画家」や「大工」などと時にうそぶいてしまう自身の浅はかさを見破られた気がした。

だが、さらに頁をめくると、より一層顔をしかめることになる。

「益なくして厚き禄をうくるは窃(ぬす)むなり。」

鎌倉時代の武士である大江広元なる人物の座右訓とのこと。これも先ほどの博士の言と同様、あくまでも引用であり、氏がそう思っているということではないのだが、司馬ファンからすると、あぁ、司馬遼太郎に怒られた・・・、益なくしてすいません・・・という妙な被害者意識に苛まれることになる。まあ、先に挙げたような歴史小説においては、このような感情を抱くことはほぼ皆無なので、その一事をとっても、本書がいわゆる“司馬本”とは一線を画することの裏付けであると言えなくもないわけだが。

と、出だしこそ緊張感がある本書だが、そこは、やがて司馬遼太郎になる人物の書、それだけでは終わらない。徳川家康、エジソン、ゲーテ、夏目漱石、カーネギー。古今東西、有名無名、あらゆる人々の言葉を借りて、そしたまた、それらの言葉に関連した氏の体験談や考えを披露することで、サラリーマンを鼓舞し、応援し、励まし、勇気づけてくれる内容になっている。耳障りのいい言葉を並べ立てるだけではない構成は、官軍側からだけではなく、敗れた側の立場からも、位の高い者だけではなく、むしろ位の低い者の立場に立ち、俯瞰的にものごとをとらえ、物語を紡いでいく、氏の片鱗が見て取れる。

全文を通して、サラリーマンという職業に対して、一つの答えを導き出しているわけではないし、一つの答えに誘導しているわけでもない。サラリーマンという職業に対して、働くということに対して、出世をする、ということに対して、あの人はこう言っているけど、その人はああ言っていて、でも、かの人はこんなことも言っていたよ、と様々な意見、考え方を氏の解釈を交えつつ記してあるのみである。

一つの答えを導き出しているわけではないし、一つの答えに誘導しているわけでもないが、それでも、読み終えた後は、一つの共通した感想を抱くことになる。なんか、大変だけど、サラリーマンって悪くないな・・・と。そしてまた、司馬遼太郎は、福田定一でも、やっぱり司馬遼太郎だ。そう思わせてくれる一冊である。

<プロフィール>

kobayashisan

小林慎太郎。1979年生まれの東京都出身。
ITベンチャー企業にて会社員として働くかわたら、ラブレター代筆、
プレゼンテーション指導などをおこなう「デンシンワークス」(dsworks.jp)を運営。
●著書
(インプレス社)
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