私から色が消えた日
静間弓
第6章 忘れ形見
私がその原稿を読んだのは手術を終えて一カ月が経った頃のことだ。
「そんなつもりで言ったんじゃない」
こぼれ落ちる涙が文字をにじませる。
萩尾さんは、私を置いてこの世を去っていた――。
私はその事実を知ったとき、膝から崩れ落ちた。
「ずっと、あなたの目が見えるようになるまではって頑張ってたの。絶対に見届けたいって。でも、一週間前に容体が急変してね」
そう話すのは私の家を訪ねてきたひとりの女性で、おっとりとした雰囲気の美人だ。そんな彼女の声は不思議と心地よく、どことなくな彼に似ている。
『萩尾優里(ゆうり)と言います』
店に入るなりそう名乗った女性は萩尾さんのお姉さんで、彼が亡くなったと告げられた瞬間言葉を失った。
彼は癌を患っていた。何も知らなかった私はその真実を聞いても到底受け入れ難く、動揺を隠せない。
二十歳のときに発病したが、一度は早期発見で完治したと思われていた。しかし一年前に再発し今度は骨にまで転移していると分かった。それはもう手の施しようがない状態で、余命半年と告げられる。
私たちが出会ったときには、もう彼の運命は決まっていた。
準備中の看板を掲げたまま、しんとした店内で優里さんと向かい合う。
「手術成功したのね。きっと、あの子も喜んでる」
放心状態の私に涙ながらに言う彼女は、鞄から何かを取り出し私の目の前に置いた。
「あなたに渡してほしいって頼まれていたもの」
それは一枚の写真だ。そこにいる私は見知らぬ男性と病室のベッドで寄り添う。でもどこか懐かしく心がポッと熱くなる。
すぐに萩尾さんだと分かった。
「やっぱりイケメンじゃないですか」
ボソッと呟きながら、手に取った写真を見つめる。彼は想像していた通りの人で一気に涙が溢れだした。
でも私が見たかったのは写真の中のあなたじゃない――。
急に虚しさを覚え、二度と見ることのできない悲しさが込み上げてきた。
彼が初めて名前で呼んでくれた日、『最後に』なんて言いながら写真を撮ってくれたのを思い出す。なんだか別れが迫っているかのような言い草で、彼が遠くへ行ってしまうような気がしていた。私が気にしたその言葉を彼は誤魔化したけれど、あれはもう会えないかもしれないと悟った彼のお別れの言葉だったのかもしれない。
「奈々子さんにお願いがあるの」
鼻をすすりながら笑顔を向けてくる優里さんは、先程まで私が読んでいた原稿を手に取り愛おしそうに見つめる。
「廉の夢は小説家だった。私はそれを叶えてあげたい」
「え」
「廉が勤めていた出版社の編集長さんがね。この原稿で本を出したいって言ってくれて、私はそれをあなたにお願いしたい。あの子の本を完成させてほしいの」
私は突然の展開に頭がついていかなかった。
「そんな重大な役目」
「あの子言ってたの。この話にはこの絵しかないなって」
しかし、優里さんは話を続ける。そこで四つ折りになった一枚の画用紙がでてきて、広げ始めるとどこかの風景画が現れる。
「それ……」
その瞬間、涙がこみあげてくる。
「廉からの伝言。僕の好きな絵に色を与えてあげてよって」
その瞬間、涙がこみ上げてくる。
興奮気味に誉めてくれた彼の言葉を思い出し、私の涙腺は止まらない。大事に持ってくれていた形跡を見て、余計に胸が苦しくなった。
「下手な絵なのに」
「私は好きよ。気に入ってずっと持っていたのも分かる」
思い出が山ほど頭の中を駆け巡る。
「なんのために、目を治したいって思ったか」
私は、気持ちを吐き出さずにはいられなかった。
「萩尾さんとずっと一緒にいたかったの。あなたの顔が見たかったの。なのにどうして」
「奈々子ちゃん」
私は駆け寄ってくる優里さんの胸を借り、何度も何度も泣きじゃくった。もう二度と聞けない彼の声が愛おしくてたまらない。
私たちの未来は何が起こるか分からない。
明日突然、大きな事故に巻き込まれるかもしれない。
明日突然、病気を宣告されるかもしれない。
明日突然、目が見えなくなるかもしれない。
明日突然、大事な人が隣からいなくなるかもしれない。
私たちの生きる世界は、一分一秒後も何が起こるか誰にも分からないのだ。
二年後。
「冴島さん、今日はもう上がってください」
「ありがとうございます」
目の移植は成功し、もう杖がなくとも歩けるようになった。あれから、私は秋乃芽生先生のもとでお世話になっている。
「もう二年ですか」
「はい」
萩尾さんが亡くなってから、先生が私の絵を有名な画家の人に紹介してくれようとしていたと知った。でも、私は彼のいたこの場所にいたくて、先生のアシスタントにしてもらったのだ。
「明日、昼間の便でしたっけ」
「今から緊張してます」
笑いながらそう言う私は、まとめていた髪をするりと解き、窓から空を見上げる。ちょうど真上を通った飛行機にドクンと心臓が脈打った。
無事、萩尾さんの本は出版され本屋さんの端っこに並ぶ。
私はその本の表紙を飾り、巷で少し有名になった。ロンドンで活躍する画家の先生の目に留まり、ロンドンの小さなコンクールで特別新人賞なるものを獲得した。
授賞式に参加するため、私はあれ以来乗っていない飛行機に初めて乗る。
でも、彼が私に勇気をくれた。
これは萩尾さんとふたりで取った賞だ。
「萩尾さん、私あなたに出会えて良かった。私の目が見えないのを忘れそうになるくらい、絵がすごいって褒めてくれて。あのとき、私はあなたに恋に落ちた。行ってくるね」
私は彼の命日の今日、彼のお墓に向かって手を合わせた。
── 完