私から色が消えた日-第4章 深い傷

私から色が消えた日

静間弓

第4章 深い傷

十一月初旬。

とある平日の朝、仕事場の自席に座っていた僕の目の前で内線電話が鳴った。

「はい。月刊アイビー編集部、萩尾です」

 出社して一時間が経った頃、パソコンに向かって手を動かしながら受話器を取った。

「お疲れ様です。受付の小林(こばやし)です。一階に冴島様という女性の方がお見えになっておりましてお約束はしていないとのことですが、いかがされますか」

 その瞬間、ガタンと音をたてて立ち上がる。

「ありがとうございます。すぐに行きます」

 僕はオフィスを飛び出し、エレベーターのボタンを何度も連打する。きっと奈々子だと思った瞬間、動揺を隠せずにいる自分がいた。

実はあの日海に行って以来、彼女とは会えていなかった。

 秋乃先生と会う機会に僕は例の絵を見せていて、その話を伝えたくてすぐに橘へ会いに行っていた。しかし店内に入ってすぐ、なぜかマスターに門前払いをくらう。

『萩尾さん。悪いんだが、もうここへは来ないでくれないか』

 それはつい三日前の出来事だ。あれほど優しくしてくれていたのに、彼の態度は急変し目も合わせてくれなくなる。僕は茫然と立ち尽くすしかなかった。

『奈々子ちゃんにはもう会わないでほしいんだ』

あまりに突然で何があったのかと聞く余裕もない。カウンターの前でスケッチブックを握りしめる手に力がこもり、ちらりと目を向けたテラスにも奈々子の姿は見られなかった。

そんな彼女が今、僕を訪ねて来てくれたとなれば慌てずにはいられなかった。

 一階に下りた僕はエレベーターホールで待つ群衆を押しのけて、ロビーの長椅子に座る彼女に向かって駆け寄った。

「なにして……」

しかし見た姿に驚きを隠せず、手前でブレーキがかかったように立ち止まっていた。

「萩尾さんの声。ちゃんとここで働いてたんですね」

「え?」

「いや冗談です。すみません、仕事場に押し掛けるような真似して」

彼女の元へゆっくり歩み寄ると、髪の毛を耳にかけながらどことなく緊張地味に話す姿に戸惑っていた。

「この前せっかく来てくれたのにおじいちゃんが追い帰しちゃったって聞いて。萩尾さんの家もわからないし連絡先も知らなくて、たしか前にここで働いてるって聞いた気がしたからここへ来るしか」

「そんなことより! どうしたんですか、それ」

 彼女の言葉より何よりも、僕は目の前の光景に目を疑う。

 僕を訪ねてきた奈々子は、左腕にギプスをはめ三角巾で首から吊っている。額や頬には絆創膏が貼ってあり、至るところに小さな傷が見られる。何日か会わない間の変貌に思わずおろおろとした。

「これはちょっとヒビが。でも右手は無事でした」

 呆気にとられ、僕はゆっくり椅子へ腰かける。あまりの状態を目の当たりにして言葉にならなかった。

「休憩ってまだですよね」

「え?」

「私何時間でも待っているので、少しだけお時間もらえませんか」

 いつもと違いどことなく重い口を開こうとする姿が胸に引っかかる。ジッと見つめながら、ひとまずLINEを交換した僕はすっきりしないまま仕事に戻った。

「お待たせしました」

「あっ、お疲れ様です。無理を言ってすみません」

 二時間後、お昼休みになり近くのカフェで待たせていた奈々子と合流した。

「それより、その怪我はなにが」

 彼女の向かい側に座るなり、早速本題に入る。痛々しい姿を見てから気になってしまい、午前中はなかなか仕事が手につかなかった。

「私、この前の定期健診で主治医の先生に聞いてみたんです。目を治す治療法は他にないですかって」

 しかし、返ってきたのは質問の答えではなかった。

「あの、何の話を」

「そうしたら人工角膜移植ならって提案されたんです。全国的にも症例は少なくてまだまだ日本に根付いていないらしいんですけど、カナダに行けば権威のある先生がいらっしゃって紹介してくださると。そこでは私と同じように目の見えない人がその手術で視力を取り戻しているんだそうです」

 それでも止まらない彼女の話に黙って耳を傾ける。どうしても怪我をした腕や頬に目がいってしまいながら、じっと口をつぐんだ。

「それでおじいちゃんに話してみました。カナダに行って手術を受けたいって。でも反対されてしまって」

 それは予想外の流れだった。

だんだんと奈々子の表情は曇り始め、今度は小刻みに手が震えだす。何が起こったのかと凝視していたら、彼女は手を抑えながら平静装って笑った。

「私、中学生の頃に両親を飛行機事故で亡くしているんです」

その瞬間、初めて知る事実があまりに衝撃的で口が開いたまま言葉を失う。

目の前の世界や夢を失った彼女が家族までも奪われていたと知り、抱える悲劇的な運命に胸がぎゅっと締め付けられ苦しくなった。

「それ以来、私はトラウマで飛行機に乗れなくなりました。おじいちゃんも娘を奪った飛行機には過敏に反応するようになって、音を聞くだけでも嫌だと言います。だから海外になんて行かせたくないって」」

 奈々子は視線を落とし、自分の左腕をさする。

「それでも分かってほしくて話しているうちに言い合いになって。慌てて店を飛び出したら、自転車とぶつかってしまいました」

タイミング悪く運ばれてきたコーヒーが机に置かれる。カチャッと鳴るカップの音が嫌というほど大きく聞こえてきて、その場の重い空気を物語っていた。

「萩尾さんを追い返したのは、そのせいなんです。私が変わったのはあなたと出会ったせいだと思ってる。すみませんでした」

「いや、そんな」

「おじいちゃんの気持ちも分かるんです。もう二度と家族を奪われたくないって気持ち。でも私は乗り越えたい。今でも想像するだけで震えちゃうけど、トラウマを乗り越えてでも手術を受けたい。そう思ったんです」

 その後、彼女が店内を出ていくまで僕は何も言葉をかけられなかった。

あれほど湯気がたっていたコーヒーもほとんど減らずに冷めてしまい、僕の情けない顔がゆらゆらと水面に映っていた。

「新しい漫画のプロットですよね。あれ、どこやったかなあ」

 その日の夕方、僕は秋乃先生の自宅にいた。新作のよみきり漫画企画の話が持ち上がり、その事前打ち合わせで来ていたのだ。

「そういえば、この前の絵を描いた方どうでした?」

「え」

「ほら、前回見せてくれたじゃないですか。全盲でありながらあれほど力強く美しい絵を描けるなんて素晴らしかった。ぜひ僕の知り合いの画家に紹介したいです」

 嬉しそうに話してくれる秋乃先生の言葉に複雑な思いを抱く。前回、先生に絵を見せたらえらく感動してどこかへ電話し始めたのだ。

 本当はあの日、その話をするために奈々子に会いに行ったのだが結局話せていないままだった。

「実は色々あってまだ話せていないんです」

 原稿の山から見つけ出した漫画プロットを受け取りながら、僕は苦笑いを浮かべる。鞄にしまいながら表情をなくしたら、先生が察したように近づいてきた。

「なにかありましたか。正直、今日は来たときから様子が変だと気づいていました」

 僕は困ったようにポリポリと頭をかく先生を見て、ハッとさせられた。

「すみません。先生に気を使わせてしまうなんて担当編集失格ですね」

 すると、先生はペンを置いて立ち上がる。

「そんなのいいんですよ。この二年、萩尾さんには無理ばかり聞いてもらって迷惑かけてきたでしょう。たまには話ぐらい聞かせてください」

 隣の部屋で作業する何人ものアシスタントたちの視線を遮るように、彼は静かに扉を閉めた。先生に促され、作業部屋の深い椅子に座らせられると、一瞬迷ったが今は誰かに聞いてほしいと思ってしまった。

「例えばの話なんですが」

「はい」

「もしも大きなトラウマを抱えた人がいて、それを乗り越えないと前に進めないとしたら先生ならどうしますか」

 どう話したらいいか分からず、とても曖昧で意味深な話題になる。

彼女の境遇は、勝手に話していい内容ではない。けれど僕の中だけでは処理しきれない。一瞬のうちに頭の中で葛藤があり、最終的にそんな言い方をしていた。

「それはまた」

「でも、そのトラウマは簡単に乗り越えられるようなものじゃないんです。それに僕がどうこうできる問題でもない。だけど、そうしたら彼女はいつ今の闇から抜け出せるか分からない。いつ来るかも分からないチャンスを待つだけで、もしかしたら一生チャンスは巡ってこないかもしれないんです」

 彼女の抱える問題はあまりに大きく、他人の僕にとやかくできるものではない。そうと分かっていながらも、どうにかしたいと思ってしまう。何かできることはないかと考えてしまう。力になりたいと強く願っている自分がいた。

先ほど見たばかりの奈々子の表情を思い浮かべながら、言葉には力がこもる。

 ふと先生を見たら、どこかの銅像を真似ているのかと思うほど唸るように悩んでいる。こんな曖昧な相談をされて困っているだろうと思いなんだか申し訳なくなった。

「私なら」

 しばらく悩んでいた先生は、少ししてそう口を開く。

「もしも、問題の本質がトラウマを乗り越えることでないのなら、前に進むための別のルートを探してあげたいと思います」

 そして先生から出た言葉は僕の頭の中で反響した。

「実際、その問題の大きさを私は知りません。だから言うのは簡単で、こんな言葉が萩尾さんが探している答えになるかは分かりませんが」

「先生」

 僕は何かが見えた気がした。

「あの、ありがとうございました」

 探していた答えを掴みかけ、モヤモヤしていた視界に晴れ間を感じる。僕のやるべきことがなんとなくわかったように思えた。

 奈々子が僕の職場を訪れた日から二週間が経った。

十二月を目前に、世間は衣替えをしてすっかり冬の装いになる。僕は日曜の夕方、いつもの時間に橘を訪れた。

「いらっしゃ……」

 僕の顔を見るなりあからさまに表情を変えたマスターは、困ったように手を止める。分かり切っていたことだが歓迎ムードにない空気感の中、僕は会釈して店内へ足を踏み入れた。

「奈々子ちゃん居ないよ」

「はい、今日はマスターに会いに来ました」

 そう言いながらカウンターへと一直線に向かい、彼の前に腰かける。

「先日、彼女が僕の職場に来たんです。手術の話聞きました。それとご両親の事故のことも」

 一瞬驚いた顔をして固まるマスターは、拭いていたグラスを置き僕に背を向ける。

「そう。奈々子ちゃん話したの」

 そう言ったきり黙ってしまい、彼の後ろ姿を見ながら話をどう切り出そうか悩んでいた。

 すると、こちらへ振り返ったマスターがいつものコーヒーをスッと前に出してくれる。そのまま店の外へと出て行ったかと思うとすぐに帰ってきて、ひと席空けてカウンターに腰かけた。彼は外に準備中の看板を出して戻ってきたのだ。

「この前はごめんね。ちょっと動揺してて言いすぎてしまったよ」

「そんな」

「奈々子ちゃんの目が治るんだ。本気で反対したいわけじゃなかった」

 突然吐き出した胸の内を聞いて、マスターの中の葛藤が痛いほどひしひしと伝わってきた。

 僕はコーヒーを飲み一度気持ちを落ち着かせる。それから本題に入ろうと鞄の中をあさり、一枚の名刺を彼の前へ差し出した。

「東京にある有名な大学病院で院長をされています。四条(しじょう)先生とおっしゃって、日本の最先端医療をけん引している方です」

「四条昌(あきら)先生。これは?」

「僕のちょっとした知り合いで。聞いた話によると、ここの病院では人工角膜移植をした実績があるらしいんです。だから彼女と話だけでも聞いてみたらどうかと」

 彼女のために何ができるかを考え、出した答えはこれだった。

僕にできるのは自分にある伝手を利用して、彼女が海外に渡らずとも手術が受けられる可能性を与えてあげることだと思った。

「萩尾さん、君は……」

「すみません。他人の僕が首を突っ込む話じゃないとは思ったんですが、何かせずにはいられなくて」

 誤魔化すようにコーヒーを一気に飲み干し、お金を置いていく。僕は用件を伝えられて満足すると、お店を後にしようと立ち上がった。

「飛行機事故にあう確率なんて宝くじに当たるくらいのものなんだ」

 しかし、マスターの声に呼び止められる。

「奈々子ちゃんが私にそう言うんだ。だから大丈夫なんだと」

「はい」

「私も分かっちゃいるんだよ。でもね、どうしてもあの子を行かせてやることができなかった。忙しくて新婚旅行に行けなかったとぼやいていた娘に、奈々子ちゃんは預かるからふたりで行ってくればいいと背中を押したのは私だった。娘の乗った飛行機が墜落したのはその新婚旅行から帰ってくる日。後悔は一生消えないよ」

 僕の前で、マスターは肩を震わせながら涙をこらえる。

僕が何を言っても薄っぺらく上っ面な言葉になってしまう気がして、何も言えなくなる。黙ったままただ頭を下げることしかできなかった。

「ありがとう」

 そして震える声が背後から聞こえ、僕はそのまま店を後にした。