静間弓
第3章 海辺の涙
約束の日曜日がやってきた。
無地のTシャツばかりのタンスからブランド物のシャツを引っ張り出す。服に無頓着な僕にとって、それは数着しかない勝負服のうちのひとつである。
一時ちょうど、車で奈々子を迎えに行く。
喫茶店の前で停まると、白いブラウスにえんじ色のスカートを履く女性が見えた。白杖(はくじょう)を手に入口付近でそわそわと待つ彼女はひとりなのになぜか楽しそうで、車の中から思わず笑みがこぼれた。
「海なんて久しぶりだなあ。昨日はワクワクして眠れなかったんです」
「本当、いつも楽しそう」
「そうですか? でもこんなに海が近いのに砂浜は私ひとりじゃ歩けないから。やっと連れて行ってくれる人ができてラッキーです」
彼女を車に乗せてすぐ、近くの浜辺へ向かう。
助手席で窓を全開にして風を感じる彼女をちらりと見ながら、思えば女性を乗せるのは初めてでハンドルを握る手に汗がにじんだ。
「大丈夫ですか?」
「はい」
そうして海につくと、僕たちは砂浜に足を踏み入れる。
奈々子は近くの駐車場に停めた車から白杖を持ちだそうとしたが何もない砂浜ではきっと無意味で、僕は自分の腕を掴ませて一緒に歩くことにした。
「ちゃんといますから。安心して」
「ふふ。頼もしいですね」
若干からかうような言葉を発して笑顔を作りながらも、恐々絡ませてきた手からは不安が伝わってくる。僕には到底想像もできないが、毎日どこを歩いても暗闇の中なんてきっと怖いに違いなかった。
「やっぱり家とは違う。ちゃんと海の匂いがする」
しばらく歩いた僕たちはレジャーシートを敷いて座る。海風は少し肌寒かったが、その風すら愛おしむように彼女は全身で感じとっていた。
「波の音も砂を踏む音も全部が懐かしい」
「喜んでもらえてよかったです」
ただただ肌で感じようと黙り込む彼女は、つんと高い鼻を海に向けてにっこり微笑む。横顔を見つめていたら、この穏やかな時間が止まればいいと思った。
「私、最近よく思うんです。こうなったのが色々な景色を見てからで良かったって」
黙っていた奈々子がおもむろに話し出す。
「ちゃんと記憶の中にあって思い浮かべられるものがあるって、幸せなことだと思うんです」
そして立ち上がった彼女はスカートを風になびかせながら両手を広げて空気を吸い込む。僕の目にはそんな彼女の姿がとても大きく感じた。
「強いですね」
ぼそっとそんな言葉がこぼれると、彼女は空笑いを浮かべる。
「これでも最初は落ち込んでたんですよ? 引きこもったり、泣いたりして」
奈々子が初めて弱さを見せた。
自分の過去を懐かしむように伏し目がちな表情をする。明るくて強い一面しか見てこなかった僕は、どこか儚げな彼女に不謹慎にもドキッとしてしまう。
「でもこの目はいつ治るか分からないから。もしかしたらこの先ずっと付き合っていくことになるかもしれないから。だったら、自分の運命を受け入れてそうなった人生を楽しまなきゃ損してるって思ったんです。過去は変えられなくても未来は私の自由。人生楽しんだもん勝ちでしょ?」
ここまで強い女性を僕は見たことがない。
今までの道のりがどんなに険しかったか僕には想像もつかないが、こうまで強くいられる彼女に俄然興味が湧いた。
「あれ?」
ずっと黙ったままいたら不安げな彼女が僕を探す。急に暗闇の中に放り込まれた少女のような顔をして、キョロキョロと方向感覚を見失っていた。
「萩尾さ……」
「ここにいる」
僕は口よりも先に体が動き、衝動的に彼女を抱きしめていた。さざ波の音がふたりの間を通過する。僕は本能的にこの人を守りたいと思った。
一瞬、時が止まったように感じながら腕の中の彼女は黙ったままで、だんだんと自分の大胆な行動が恥ずかしくなってくる。
「ごめん」
「萩尾さんは光みたいな人ですね」
謝りながら後退ろうとしたら、奈々子のくすっと笑う声がした。
僕はその声に安堵しゆっくりと彼女から離れる。しかし見えたのは想定外の表情だ。
「どうしよう」
そのとき、僕は初めて彼女の涙を目にする。
先ほどまで笑顔が見られるはずだったのに、奈々子の表情は真逆の感情を表していた。
「この目と付き合っていこうって覚悟したはずなのに。萩尾さんに会ってからどんどん欲張りになってる」
「どうしたんですか」
「この目を治したいって本気で思ってる」
耐えきれずにこぼれ落ちた雫が一筋の光となって頬を伝う。
僕は奈々子の肩に手を添えたまま、何も言えなくなってしまった。
「今日は、ありがとうございました」
「うん」
「すみません。でも、楽しかった」
彼女を店の前まで送り届け、別れ際に交わした会話。その一言に、全てが詰まっているように思えた。
「また私の絵、見てもらえませんか」
「絵を?」
「萩尾さんに見てもらえたら自信が持てる。いつかこの目が治る日にもう一度夢を追いかけられるように描き続けていたいから」
僕は奈々子の笑った顔を見て、ある考えが頭をよぎった。
「スケッチブック、借りて行ってもいいですか」
彼女を元気づけるために少しでも彼女の力になりたいと思った。
「前に僕は編集の仕事をしてるって言いましたよね。それで、あの絵を僕が担当している漫画家先生に見せてみたくて」
なんとなく彼女に勇気を与えられる気がした。
しかし、ぽかんとした顔で静止する奈々子の瞬きが多くなる。そんな彼女を見て「あっ」と声が出た。
「もしかして盗作の心配とか。いや、これは純粋に胸打つ作品だったからプロの目で」
「焦りすぎです」
すると、またくすくすと笑い出す彼女が僕の声を遮る。
「萩尾さんのことは信用してますから。ただびっくりしただけですよ」
「そうでしたか」
「ありがとう」
ホッと安堵した僕は、彼女が照れたように言う姿をいつまでも見つめていた。

StartHome編集部

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