静間弓
第2章 君の描く世界
僕が『喫茶・橘』に通い始めて二ヵ月が経とうとしていた。
季節も秋に近づきだんだんと木々の色が変わり始めた頃、僕はいつからか休日にまでこの店へ立ち寄るようになる。
冴島奈々子とは年が近いこともありすぐに打ち解け、店に通うたび距離が縮まっていった。僕は決まって人の少ない三時を狙い、彼女を独り占めする。
ある日、カウンターで店番をしていた彼女とふたりで話し込んでいたら、帰ってきたマスターが気を利かせてテラスへ行くように促してくれた。それからなんとなくテラスで話すのが当たり前になっていき、今ではマスターの淹れたコーヒーを持って自然と足が向いた。
「今日も絵、描いてたんですか」
テラスの扉を開けるなり、唐突に声をかける。
テーブルの上には大きなスケッチブックと鉛筆が置かれていて、彼女は毎日のようにここで絵を描いている。まだ見せてくれたことはないが、正直目の見えない彼女がどんな絵を描いているのかすごく興味があった。
「その声は萩尾さんですね」
透き通るような声が僕の耳に気持ちよく入ってくる。緩くかかったパーマを揺らしながら振り向く彼女の髪が風になびき、近づいた瞬間ほのかにシャンプーの良い香りがする。
「相変わらず耳がいい」
「もちろん。特に自信があるところですから」
迷いなく隣の椅子へ腰かけると、自慢げに言う彼女がどこか一点を見つめながらにんまりと笑う。そのセリフに、ふと初めてこの店に入った日を思い出した。
あの日、店内の冷気に『ああ』と反応した僕の声はほぼ吐息のようなもので、流れていた穏やかなBGMに混ざっていた。しかし彼女はその小さな音を耳でとらえ、記憶の中にある声と照らし合わせたのだという。
最初にその話を聞いたときは半信半疑でまさかと笑っていた。でも些細な音にも敏感に反応する彼女を間近で見ていたら、だんだんと信じられるようになってくる。
むしろ大勢の人が出入りする喫茶店の中、いとも容易く声を聞き分けてしまう正確さは誰にも負けないのだろうと思った。
「萩尾さん」
「はい?」
「今更なんですけど、萩尾さんってどんなお顔してるんですか?」
優雅にコーヒーを飲みながら携帯をいじっていたところへ、思わぬ角度から飛んできた質問に咳き込んだ。
「え、なんで」
「そりゃ見えないからです。こんなに仲良くなれたのに顔を知らないなんて寂しいじゃないですか」
「いや、僕はいいですよ」
照れながらコーヒーをまた口に運び、飲む速度が上がっていく。
自分の顔を説明するなんて、想像しただけで恥ずかしい気がした。
「じゃあ、いいんですか? 私とびっきりのイケメンを想像しちゃいますよ?」
「えっ。あ、いや」
でも彼女の方が一枚上手(うわて)で、そう言われてしまうと適当にそれでいいとも言いづらい。なんとも絶妙なところを突いてきた。
「その、どんな顔と言われても」
「塩顔? しょうゆ顔? あ、それともソース顔」
「さあ、言われたことないので」
思い返してみても、過去にそんな分類をされた記憶がない。テレビで〝塩顔イケメン〟など、判断基準のよく分からない調味料で例えられているのを聞いたことはあるが、僕にはいまいち理解できなかった。
「じゃあ、目が二重だとか。なんでもいいですよ」
前のめりで話す奈々子は僕に興味津々だ。
彼女の圧に負け、携帯のカメラで自分の顔をまじまじと見ながら渋々口を開いた。
「えっと、二重です。多分、結構はっきりめの……」
「あとは?」
「うーん、鼻は大きい方かな」
「うんうん」
「肌は地黒で、口の下にふたつ黒子があります。唇は薄い。彫りが深いとか言われたこともありますし、あっ昔からタヌキ顔だと言われます」
じっくりと顔を観察しながら、意外にも真面目に答えている自分がいた。
「ふーん」
楽しそうに笑みを浮かべる奈々子は、僕の言葉に反応しながら指を動かし空中をなぞる。そんな様子が横目に見え、ふと携帯の画面に映る自分と目が合った。
「もういいですか」
「はい。思った通りイケメンでした」
恥ずかしくなり鼻をこすっていたら、またもや動揺させるような言葉が飛んでくる。目を丸くして面食らってしまい言葉が出なかった。
「声でなんとなく想像はしてました。そうしたら思った通りの人だった」
「なんですか、それ」
「萩尾さんの声って、とっても優しくて温かくて心地いい音がするから」
ストレートな言葉ばかりで不覚にも顔が熱くなる。一気に変な汗が出てきてこっそりと額を拭った。
しかし鋭い奈々子には動揺がバレていて、彼女は僕の反応を楽しむようにケラケラと笑う。そのとき満面の笑顔はキラキラと輝き、目を奪われる。
隣でこっそりと見つめる僕は、いつのまにか彼女に夢中だった。
翌日、僕は仕事のため担当をしている漫画家先生の自宅にいた。
海を前にして建つ大豪邸の中、リビングの中央にでんと構える大きな革張りのソファで締め切り間近の原稿を待つ。振る舞われた紅茶を飲みながら、何度来ても慣れないヨーロピアンテイストの室内を見回していた。
そこへ丸い眼鏡をかけた無精ひげの中年男性が目の前を通りがかり、僕の前で足を止める。
「萩尾さん、最近雰囲気変わりましたね」
いつもこの時期になると風呂にも入らず徹夜続きのため、髪も服もボロボロの状態だ。目の下をクマだらけにしながらコーヒーのカップを片手に持ち、向かいのソファに座ってきた。
「先生、原稿は」
「うん、ちょっと待っててくださいね。アシスタントくんたちが頑張ってますから」
締め切りギリギリだというのに、マイペースな先生が謎の余裕を見せてくるのはいつものことだが、相変わらずの空気感に編集者としては頭を抱える。
そんな彼こそがうちの出版社で何作もの連載を持っている売れっ子少女漫画家・秋乃芽映(あきのめばえ)先生である。まだ一度も世に顔を出したことがなく性別年齢共に非公表を貫いているが、見た目はいたって普通の四十代半ばのおじさんだ。
僕が担当についたばかりの頃は、ペンネームの雰囲気や少女漫画家という先入観から相手は完全に女性だと思い込んでいた。しかし自宅だと案内された大豪邸から出てきた、その門構えに似つかない髭面のおじさんを見て衝撃を受けたのを覚えている。
〝ティーンに刺さる少女漫画ランキング一位〟を獲得した経験もある恋愛漫画のスペシャリストが、まさかこんなくたびれたシャツを着ただらしのないおじさんだとは、読者もだれも予想していないだろう。
背格好は百七十センチ超でひょろひょろとした見た目だが、髭をそって髪型を整えれば案外格好よく仕上がるのではないかと密かに睨んでいる。
先生の担当について二年、僕たちは良いパートナーとして関係を築いていた。
「それより良いことでもありました?」
「良いこと……、特には」
「そう? なんか感じ柔らかくなった気がしますけど」
僕はその瞬間、なぜか冴島奈々子の顔が頭をよぎる。
一瞬思い浮かんだような顔をしてしまったら、にやけた顔で僕を見る先生からの視線を感じて慌てて目を逸らした。それから体を背けてもじわじわと詰め寄ってくる感覚を覚え、僕はため息をつく。
「その、最近出会った子がちょっと不思議だというだけです」
期待のこもった視線から聞きたいと声が聞こえてくるようで、僕は仕方なくぼそぼそと話し出す。諦めて前へ向き直ると、興味津々な先生が前のめりになっていた。
「彼女、目が見えないんです。でも障害があるなんて思えないくらい嘘みたいに明るくて、なんなら僕よりも人生楽しんでいるように見える。いつも笑っている彼女を見ていたら元気がもらえて、目が見えないのに絵まで描いて好きなことを……」
そのとき、掛け時計が三時ちょうどを知らせる。ヨーロッパ風の室内でひと際浮いているアンティークの古時計が重い鐘の音を鳴らし、そこで我に返る。
「僕の話はいいんですよ。先生、原稿です。編集長に怒られるのは僕なんですから」
「うん。実に春の匂いがします」
秋乃先生は僕の話を無視して、それだけ言い残すと満足げにコーヒーを持って消えていく。
「春……。もう秋なんですが」
言わされるだけ言わされてひとりになった瞬間、広い部屋で茫然とする。モヤモヤとした感情だけが僕の中に残った。
一週間後の日曜。
仕事は休みで暇を持て余していたら、いつもより早くに家を出ていた。橘を訪れたのは珍しく昼の十二時頃で、扉を開けるといつもと違う光景が飛び込んでくる。
店内はお昼時で賑わいを見せていた。
「あれ、いらっしゃい。今日は早いね」
忙しそうなマスターは僕を見つけるなり声を出す。
「ごめんね、今バタバタしてて。ちょうど一気に混んじゃったから」
「昼間ってけっこうお客さん入ってるんですね」
辺りを見回しながら、満席の店内の様子に思わず感心してしまう。
「土日は特にね。あーもしよければ後でいつものやつテラスに持ってくから、先行っててくれる?」
今日はアルバイトの女性がふたりもいて店の雰囲気はがらりと変わる。ランチメニューのホットサンドやナポリタンがテーブルの上に並んでいて、空腹のお腹が反応する。
「すみません、忙しい時に。僕のは全然後回しでもいいので」
軽く会釈をして彼女のいるテラスへと向かう。普段より三時間早く来ただけなのに、なぜか少し緊張していた。
そのとき扉に手をかけた瞬間、窓ガラス越しに見えた奈々子が真剣な様子でスケッチブックに向かっていて、心臓がドキッとした。。よく画家がデッサンに使うイーゼルに立てかけて、鉛筆で何やら描いている。
その後ろ姿を見たら扉を開けるのをためらい、足が動かなかった。
いつもは描き終えた後のスケッチブックが残されているだけで、僕は手を動かす彼女を見たことがない。でも今日やっと絵の端がちらりと見えて一気に胸が高鳴った。
「初めて見ました」
「えっ⁉」
唾を飲み込み、緊張気味に扉を開ける。ゆっくりとテラスへ出た僕に気づき、奈々子がばたばたと慌て出した。
「萩尾さん? あれ、今日は随分早いんですね。まだまだ来る時間じゃ」
絵を隠そうと覆いかぶさるがなんとなく空気感で感じ取ったのか、ゆっくり振り返り苦笑いを浮かべる。
「もう見えちゃいましたよね」
「はい」
僕は彼女の隣に椅子を持って近づき、絵をまじまじと見る。
「すごい。どうして恥ずかしがるんですか」
絵の全貌を見た瞬間、すごいなんて言葉じゃ足りないほど奈々子の描く風景画は美しく、衝撃を隠せない。絵に詳しいわけでもないし美術館にだって行ったこともない。そんな自分には何がすごいかなんて説明はできないが、それでも心が衝撃を受けて感動したと言っている。
「ちゃんと描けてましたか」
「いや描けてるもなにも。ほら、こんなに……」
そう言いかけたとき、とっさに口を覆う。
僕は一瞬、奈々子の状況を忘れかけていた。見れば分かるというような言い方をしてしまい、目の見えない彼女に失礼な発言をする。
思わず顔色をうかがいながら、自分の無神経さを後悔した。
「嬉しい」
しかし彼女はなぜか顔をほころばせ、ぼそっと呟いたのだ。
「あの」
「私、完成した絵が見られないから。想像の中の風景を描けているって思うしかなくて、結局自己満足で終わってたんです。どんな出来か分からなかったから誰かに見せようと思ったこともなかった」
その言葉に単純な僕は嬉しくなる。この素晴らしい絵を知るのは自分だけなのだ。
「これ、他も見ていいですか」
「あ、はい」
僕はスケッチブックに手を伸ばし、ひたすらページをめくる。それから手は止まらなくなり、次々と現れる世界に感動が溢れだした。
「素敵です。これ、本当に目が見えなくなってから?」
こんな言い方をして、彼女を傷つけていないかと後になってハッとする。しかしどれもダイナミックなタッチで草原や花畑、海や川といった自然が生き生きと描かれているのを見たら、そう言わずにはいられなかった。
彼女の絵には、人を惹きつける不思議な魅力があった。
「私、実は三年前まで目が見えてたんです」
冴島奈々子は話し出す。それは今まで僕が踏み込めずにいた彼女の過去の話だ。
美大に通っていた彼女は毎日絵ばかり描いていて、コンクールで大賞をとったこともある実力者だった。それが二十一歳の誕生日を前にして、突然視力が失われる。
彼女は『角膜変性症』と言われる遺伝的な病気で、治療法は角膜移植しかないのだという。しかしドナーは簡単に見つかるものではなく三年の月日が経っていた。
「本当は絵本作家になりたかった」
吐き出すように言った最後のセリフにドクンと心臓が脈打つ。僕は手元の絵を見つめながら言葉に詰まり、無理して笑う奈々子の表情が頭から離れなくなった。
今まで見ていた彼女とは別人のようで、奥底に眠る闇に触れてしまった気がした。
冴島奈々子の人生に〝目〟はなくてはならないものだったのに、視力と共に彼女は夢まで失われてしまった。
「でもね。目が見えなくなったら他の五感はびっくりするくらい研ぎ澄まされたんです」
すると急に口調が明るくなる。突然いつも通りの笑顔を見せられ、こちらの感情が追い付かない。
「この生活を何年も続けてたら耳と同じように手の感覚も敏感になってきて。絵を描いていた頃を思い出しながら鉛筆の跡を辿っていくと、不思議と自分の中でどう描いているか分かるようになってきたんです」
彼女はひとり吹っ切れたような顔をして、僕を置いて先を行く。
「唯一できないのは自分の絵に色をつけることだけど、絵は描けますから。結局出来上がりが見れないから自己満足には変わりなくても、私の中では瞼の裏にちゃんと自分の絵が見えてるんです」
強い——。彼女を見ているとその一言に尽きる。
必死で言葉を選んでどう声をかけてあげたらいいか悩んでいたけれど、僕の言葉など必要ないほど彼女は強かった。
「あっ、萩尾さん」
「はい?」
「今度の日曜、海に連れてってくれません? 私、海が見たいです」
無意識のうちに体全体に入っていた力が一気に抜けていく。あまりの切り替えの速さに、口がぽかんと開いた。
「ダメ? 私、来週の日曜も仕事休みなんですよ」
「え、仕事してたんですか?」
思わず反射的にそう言ってしまう。
「ちょっとひどい。私、二十四ですよ? 当たり前じゃないですか」
奈々子はムッとして言うが、毎回この店に来るたびテラスにいる彼女を見てきたからまるで仕事をしている印象がなかった。
「視覚障害者にだってできることはあります」
「いや、そういう意味で言ったわけじゃ」
「一応、鍼灸師歴二年です」
「鍼灸師」
よくよく考えれば無職だと思っていた方がおかしな話だ。
今まで隔週で来ていた日がたまたま彼女の休みと重なっていただけだと知り、驚かされる。偶然は奇跡的だった。
「それで? 連れてってくれるんですか?」
ジッとこちらを見ながら、距離感までは分からない彼女の顔がどんどん近づいてきてドキッとさせられる。戸惑いながらも「はい」と小さな声で答えた僕に、彼女はぱっと嬉しそうな笑顔を向けてきた。
奈々子が笑うとなぜか僕まで嬉しくなる。不思議な感覚に襲われ、つられて笑顔になった。
ちょうどそのとき、テラスにはコーヒーが運ばれてくる。こちらの様子を見たマスターが何やら嬉しそうに微笑んできて、僕は慌てて首を振った。
「あ、いや」
「ん?」
「なんでもないです」
僕の声には奈々子の方が反応してしまい、色々と状況が渋滞する。
すぐに背を向けたマスターは去り際にぐっと親指を立てる。眉毛をかきながら、何やら勘違いされている気がして苦笑いを浮かべた。

StartHome編集部

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