仕事を愛し、土地を愛し、家族を愛し、妻を愛す。
父方の祖父母の家には、祖父の筆による書が置いてあった。
祖父は僕が中学生の時分に、祖母は僕が大学生の頃に亡くなった。
亡くなってから二十年ほどが経っているが、なぜだか最近になり、ふと、祖父母との時間に思いをめぐらせることがある。
祖父母は三重県の出身だが、人生の大半を台東区竜泉で過ごした。
祖父は僕が中学生の頃に亡くなってしまったこと、また、必要のない会話は一切しない無口な人であったため、会話をした記憶がほとんどない。
一方、祖母は真逆。祖父の言葉を奪い取ったかのように、耳にしたこと、目にしたこと、次から次へとせわしなく口から発した。
そんな祖母だったが、故郷である三重の話を彼女の口から聞いたことは一度もない。
詳しい経緯はわからないものの、祖父母はお互いの両親に結婚を認めてもらうことができず、駆け落ちで東京に出てきたとのことだった。そのため、それ以来、故郷とは疎遠になってしまったらしい。
口にしたい思い出もたくさんあっただろうが、自分の意思で捨ててきた手前、故郷のことを口にすることは憚られたのかもしれない。
最近、思うことがある。人の生涯において、誰かに、または何かに向けることのできる愛情の絶対量は限りあるのではないか、と。
自身の感覚として、若い頃は自分自身に向きがちだった愛情が、他者や世の中に対して多少向けることができるようになり、愛情量が増えたのかな、と思い上がっていたが、そうではない。単純にあっちにあったものをこっちに持ってきただけに過ぎないということに気づき始めた。
話を、冒頭の祖父の書に戻す。
親の伝からすると、建前ではなく、書の通り、祖父は自分を育んでくれた仕事や土地、祖母を、確かに愛していたように思う。
仕事に関しては、祖母と二人で東京に出てから、文房具会社を創業し、亡くなるまでその経営に従事をしていた。自身の住んでいる土地に対しても、地元に神社を寄贈するほど想いを強く持っていた。祖母のことも大事にしており、二人で海外旅行にもよくいっていたようだ。
当時は、単純に、なんだかすごいな・・・、と思っていた程度だが、今は、捉え方は少し異なる。きっと、故郷や両親に向けるべき愛情が、向けたい愛情が、行き場なく漂い、その他のもの、仕事だったり土地だったり、祖母へとより強く向けられることになったところもあったのだと思う。
故郷を捨て、まさに寄り添うようにして東京で生きてきた二人だから、
祖父が亡くなったあとの祖母の心は、きっと、細く、頼りないものだっただろう。
きっと、と書いたのは、表面上は、少なくとも僕の目には、ひどく落ち込むというものではなかった。会えば、相変わらずの言葉数だった。
それでも、当時の出来事で、ひとつ覚えていることがある。
「散歩に行こうか」
その日、祖母の家に遊びに行くと、めずらしく祖母が散歩に誘ってきた。
めずらしいな、と思いつつも、外に出た方が祖母の気も紛れるだろうと思い、僕は誘いに素直に応じた。
その当時、すでに祖母は九十歳を超えていたものと思うが、外に出ると、年齢を感じさせない確かな足取りで、夜に染まりつつある夕刻の路地裏を、ひたひたと歩いてゆく。
15分ほど近所を歩いたのち、家の前へと戻ってきた。
そのまま家に帰るものと思ったが、祖母は、家の前を通過すると、そのままの歩みを続けた。同じ道を、ぐるぐると歩く。
それを、二周、三周と繰り返したが、祖母は、歩みをとめない。
路地から聞こえてきていた子供たちの嬌声は闇へと消え、近所の家々から洩れる生活の灯りが、薄ぼんやりと祖母と僕の足元を照らす。それでも、祖母は歩く。
そろそろ止めよう・・・。
そう思っていた僕の心を察したかのように、四回目に家の前に来たとき、糸が切れたように、祖母がその足をとめた。そして、
「もう、帰ろうか・・・」
僕に言うでなく、自分に声をかけるように、そうつぶやくと、細く小さい背中を、
家の中へと消した。
人生において、誰かに、または何かに向けることのできる愛情の絶対量は限りあるのではないか。誰かを、何かを失えば、その愛情は他のものへとうつる。
しかしながら、当然、そう簡単にうつせるものではない。
ひとによっては、対象を失った愛情が、どこへいくでもなく、その場に、所在なさげにとどまる。
きっと、あの日の祖母はそうだったのだと思う。
捨てた故郷を、置いてきた両親を。そして、失った祖父を。
他へ向けることができない愛情を、とどまる愛情を、振り切るように、ひたすらに、
あの日の祖母は歩いたのではないか。
思い返すと、そんな気がする。
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【連載】恋文横丁 ~ラブレター代筆業の日々~ Vol.1”自分勝手”な想い
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StartHome編集部

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